違和感
教室は薄暗くて、外からの光がやたらと眩しい。窓側の方の目を細めながら、井川が僕のノートに落書きしているのを何となく眺めていた。鉛筆を持つ彼女の手は白く、光っているようにさえ見えた。宇宙人の手……。
見慣れているはずのものが、何故だか急に奇妙に感じられることがある。さっきまでは何ともなかったのに、今は井川の手が作り物のように思えてならない。白い手は、カッターの刃を突き立てても血など出そうになかった。
「お前は、井川万知だ」
「どうしたの、急に?」
井川は落書きを続けている。
「本当にそう思うか?」
「当り前でしょ」
その時、遠くの教室から女子の高い笑い声が聞こえた。
「うまく言えないんだけどさ、そういう当たり前のことに違和感を感じることってないか?」
「ん〜?」
気のない返事をしながら、ページをめくる。
「ほら、簡単な漢字なのに間違っているような気がして字典を調べてみたり、足の指が急に芋虫みたいに見えて気持ち悪くなったり……とか」
見慣れたものが、そうではなくなる瞬間。得体のしれない何かになる感覚。僕だけなのだろうか。
「違和感、ねぇ……。でもさ、『当たり前』だとか『よく知ってる』って、自分がそう思ってるだけで、本当はちゃんと見てなかったのかもしれないよ」
鉛筆と紙のこすれ合う音が大きく響いて耳に届く。
「芋虫みたいに見えるのが正しいかもしれないじゃない」
僕は、あれから自分の足をまともに見られない。
「じゃあ、それまで見ていたものは何だったんだよ」
不安になる。自分の目が、自分が信じられなくなる。自分も作り物のように思えてくる。
「自分を疑ったって、良いことないよ」
落書きの手が止まった。やはり、まだ作り物みたいに見えた。
「君は、大島彼方。そうでしょう」
そうだろうか。
分からない。井川が顔をあげる。
「わからないの?」
井川が僕を見る。眼を包む水分が光を反射した。こっちを見ているのは、知らない。知らない人だ。さっきまで井川だったのに。いかわ、だった。
「おおしま、かなた」
いかわだっただろうか。いかわなんて居ただろうか。
「じぶん、を」
何か僕に話しているけれど、どうも聞き取れない。日本語ではないようだ。
「うた、がったって」
白い手が不気味だ。何を言っているのか分からない。
「い、いこと」
手が、気持ち悪い。僕の手は、僕の手も気持ち悪い。切り離したい。
「ない、よ」
筆箱からカッターナイフを取り出そうとするけれど、思うように手が動かない。これは僕の手ではない。気持ち悪い。早くしなければ。我慢できない。カッターを逆手に持って振り上げた。あとはもう。
「きみは」
違和感は消える。
了