壁
この町は壁に囲まれていて、誰一人として出ることは出来ない。 壁は、空高くそびえ立ち、乗り越えることなど不可能だった。 町の住人は、誰も出ようとしなかったし、出ようと思うことも無かった。 この町の外に世界なんて無いと思っていた。 壁の向こう側があるなんて考えたことも無かった。 このちっぽけな町が、世界の全てだった。
散歩からの帰り道、私は空を見上げた。 空は狭く、いつもくすんだ色をしている。 私の頭上で止まったまま動かない太陽は、灰色の雲に覆われていて、その光が町を照らすことは無い。 急ぎ足で行き交う人々。 自分のつま先ばかりを見て歩く姿は、皆どこかいじけて見える。 人形のように何も考えることなく、毎日同じ行動を繰り返すだけの生活。 向かうべき場所など、何処にも無いのだと思い知らされる。
「貴方は一体何からこの場所を守っているの?」 いつの間にか、目の前に見知らぬ少女が立っていた。 「高い高い壁を作って、一体何を拒絶しているの?」 私の顔をじっと見据えて、少女は問いかけてくる。 「本当は貴方も分かっているのでしょう?」 声が出せない。 「壁なんて無いのよ」 少女が何を云っているのか私には分からない。頭の奥が酷く痛む。もうこれ以上聞きたくない。 「此処には、自分を傷つけるものは何も無い。他人の言葉には耳を塞ぎ、何もかもを忘れることの出来る、夢のような場所。貴方やこの町の住人達のように、現実を受け入れられない者の来る所。出て行けない理由を全て壁のせいにして、逃げ続けているだけ」 胸が苦しい。息が出来ない。分からない。分からない。一体、何を、云っているんだ。 「辛くても、忘れたりしないで」 私は立っていられなくなり、地面に倒れこんだ。 少女はゆっくりと壁に向かって歩いていった。 「この壁は貴方が作り出した幻。こんな壁、障子を破るより簡単に壊せるわ」 「壊すだって?」 私は声を絞り出す。 「そう。貴方は此処から出るの」 「厭だ。壁が無くなったら、向かう場所が出来てしまう。行かなければならなくなってしまう。私は、行きたくない」 私は何を云っているのだろう。何処へ行くというんだ。そんな場所など無い筈だ。だから、この町に居るのではないか。 「駄目よ。だって、貴方が此処に居たら。貴方がこのまま忘れてしまったら。私は、消えてしまうんだもの」 少女が触れると、壁は音をたてて壊れていった。 「私、待ってる」 高い壁が崩れ落ちると、周りが少し明るくなった気がした。 砂埃の舞う中で、さっきまで少女が立っていた場所から、細い道が伸びているのが見えた。
どれ程ぶりだろう、家の外へ出るのは。 季節が変わってしまった。 木には青々とした葉が繁り、太陽の光が降りそそいでいる。 私の髪も随分と伸びた。 少し強い風が吹いて、木の葉がざわざわと揺れた。 私は、花を持って細い小道を歩いて行く。
とても辛い事だった。 認めたくなかった。 だから、忘れることにした。 この町の外に世界なんて無いと思い込んで。 壁の向こう側があるなんて考えないようにして。 このちっぽけな町が世界の全てだと、嘘を付いて。 全てを、無かった事にしようとした。 君の存在さえも。
でも、忘れてはいけなかった。 無くしてはいけなかった。
この羽織は、君が選んでくれたんだっけ。 君は、白い花が好きだった。 春には白詰草で花輪を作ったね。 浜辺を二人で歩いた事もあった。 美しく紅葉した山を、長いこと眺めたり。 手を繋いで、雪が降るのを見たりした。
君がくれたんだ。
「思い出を、有難う」 私は、彼女の墓に向かって呟いた。
了
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