僕は風が嫌いだ。
 特に、日が暮れ始める前、木をガサガサ揺らしながらドオッと吹いてくる風が嫌いだ。
 どうして風が嫌いなのか、僕自身よく分からない。ただ、強い風に吹かれていると、何か忘れていることがあるような気がして落ち着かないのだ。
 

 一日の授業が終わり、僕は一人で学校を出た。いつもの帰り道を黙々と歩き続ける。誰かとすれ違うこともない。
 変な気分だった。いつも通りなのに、いつもと違う。
 風が街路樹の葉を揺らした。真っ青な空にグネグネと禍々しく伸びた木の枝は、僕を捕らえようとしている腕のようだった。
 風の音が迫ってくる。

 ザワザワザワザワ
 ザワザワザワザワ

 僕を不安にさせる音。
 耳を塞いでも、どこからか聞こえてくる。
 僕はこの音から逃れたくて、早足で家に急いだ。
 その間、決して後ろは見なかった。振り向けば、もう戻れなくなる気がした。
 玄関の前で立ち止まり、呼吸を整える。
 鍵は開いていた。
 家の中は薄暗く、誰もいない。
 窓が開けっぱなしになっていて、カーテンがバタバタと音を立てて揺れている。
 胸騒ぎがした。何かが変だ。

 ザワザワザワザワ
 ザワザワザワザワ

 僕は走り出していた。走り出さずにはいられなかった。
 今帰ってきた道を戻っていく。
 何か忘れている。何か、重要なことを。
 走っても走っても、風はついてくる。
 その音は、僕を捕らえて離さない。
 一歩足を踏み出すごとに、ずっと感じていた胸のざわめきが一層強くなるのが分かった。
 学校だ。
 校門を出てすぐの通りに人が集まっている。
 心臓が激しく鼓動する。
 強い風が髪の毛を乱暴に撫でていった。
 風の音が耳に響く。思い出せ、と責め立てる。
 僕はゆっくりと近づいていった。
 人と人の間から、ちらりと車が見えた。
 ボンネットがひしゃげて、フロントガラスが割れている。
 道路にはガラスの破片が無数に飛び散っていた。
 人をかき分けて前に出ると、白いカッターシャツが見えた。
 高校生の男の子が、頭から血を流して倒れている。
 見覚えのある顔だった。
 母親らしき女性が泣きながら駆けよっていった。
 ああ、風の音がうるさくて。
 何も聞こえない。


 ザワザワザワザワ
 ザワザワザワザワ

  ザワザワザワザワ
  ザワザワザワザワ

                了