千年の蝶

 

 

お父さん、お母さん、さようなら。

あたしは、世界を卒業します。

冷たい風が吹き抜ける学校の屋上に、青井蝶子は立っていた。紺色のセーラー服が、音をたててなびいている。蝶子は、履いていた靴を脱ぎ、行儀良くそろえて置いた。屋上を囲む高いフェンスに腰掛け、下を見下ろす。見慣れたグランドと、体育館が見えた。

お先に。

明日、体育館で本当の卒業式を迎えるはずの級友達に別れを告げると、蝶子は空を見上げ、大きく深呼吸した。

神様、あたしを蝶にして下さい。

 

まさに飛ぼうとした時、ひときわ強い風が吹いてきて、蝶子の体を押し戻した。蝶子は思わず目をつぶって、フェンスにつかまった。

カシャン

蝶子がゆっくり目を開けると、そこには闇を纏った青年が立っていた。黒いコートが風に翻る様子は、まるで悪魔が翼を広げているかのようだ。バサバサという音が、悪魔の羽ばたきに聞こえる。

あたしのことを、裁きに来たのだろうか。

「悪魔?」

蝶子がおそるおそる尋ねると、「違うね」と見た目悪魔の青年は答えた。

「僕は、僕だ」

そう言って、ニヤリと笑った。

「あなたは、何者なの?」

「それは、聞き飽きた質問だな」

青年は本当に聞き飽きているようで、蝶子がその質問をすると、小さくため息をついた。

「千年屋」

「え?」

青年が口にしたのは、聞き慣れない単語だった。

「千年の時を売る、千年屋さ」

「時間を買わないかい?」

千年屋は、そう言って蝶子の隣に座ると、時間を買うとはどういう事かを説明してくれた。千年屋から時間を買うと、若いまま体の時間が固定され、年を取ることなく千年生きられるというのだ。

千年生きるって、どんな感じだろう。

蝶子にはよく分からなかった。誰だって分からないだろう。蝶子が黙っていると、千年屋が口を開いた。

「僕が千年屋になってから、もう九百九十九年になる」

まるで、蝶子の心を読んだかのように言った。

「今日でちょうど千年だ」

「千年生きるって・・・どんな感じ?」

「面白い」

千年屋は、即答した。

「僕は、今までに色々な人の声を聞いた。そして、たくさんの人に時間を売った。時間があると、心に余裕が生まれる。千年生きて、僕は多くのことに気付く事が出来た」

「・・・あたしも、千年生きたら何か気付くかな?」

蝶子は、楽しそうに話す千年屋が羨ましくなった。

「声が聞こえたんだ。僕を呼ぶ、君の声」

千年屋は、蝶子の瞳を見た。千年屋の漆黒の瞳には、魔力があるように思えた。不思議と話を聞いて欲しくなる。蝶子は深呼吸した。深呼吸をするのは、蝶子の癖だ。心を落ち着かせると、ゆっくり話し始めた。

 

「夢を見たの。青色に光る蝶になって、大空を舞う夢・・・」

千年屋は黙って聞いている。

「あたし、他の子みたいに、勉強やスポーツが上手く出来なくて、一度も褒められたことがなかった。でも、蝶になったあたしを見て、みんなが『きれいだね』って笑ってくれたの。『こんなあたしでも、人を喜ばせる事が出来るんだ』って思うと、とても嬉しくて、何度も何度もみんなの周りを飛んだ。目が覚めても、その時の感覚が残っていて・・・本当に蝶になれるんじゃないか、って思った。・・・空を飛べば、自分を変えられる気がしたの」

千年屋は黙っている。蝶子は、それを怒っていると思ったらしく「やっぱり、あたしって馬鹿だよね・・・。半分賭けだったんだけど、今考えると賭けにもなってないし・・・これじゃ、自殺だよね。蝶になれるか、落ちて死ぬか・・・バタフライ・オア・ダイ!な〜んて・・・」と、無理に冗談っぽく付け足した。しかし、千年屋の反応はなく、蝶子は半泣きになった。恥ずかしさが込み上げてきて、本当に泣きそうになってきた時、千年屋が急に立ち上がった。

「気に入ったよ!」

「ふえ?」

蝶子は、変な声を出した。

「君の瞳は、とても澄んでいる。君の気持ちに嘘がないという事は、瞳を見れば分かるよ。君は、心から『空を飛ぼう』としたんだ」

千年屋は、ひゃははと愉快そうに笑った。蝶子は、何だか嬉しくなった。千年屋の言葉にも、魔力は宿っているのかもしれない。

 

「千年屋にならないかい?」

ひとしきり笑った後、千年屋が言った。

「あたしが?」

「そう。君、面白いから向いてると思うよ」

変な理由で、勧めてきた。

「う〜ん・・・」

「自分を変えるには、ぴったりの職業だと思うんだけど。嫌かい?」

「ううん。あたし、やって・・・みたい」

「本当?」

千年屋は、嬉しそうに蝶子の方を見た。

「でも・・・あたし、あなたみたいになれるかな?」

「ひゃはは。空を飛ぶのも恐れなかった女の子が、やけに弱気だね」

「・・・うん」

しばらく、二人の間に沈黙が続いた。

「・・・君は、僕と同じ様になる必要はない。君は、君の千年屋になれば良いんだ。君なら、きっと『人を喜ばせる事の出来る』千年屋になれるさ」

不意に、さっきまでとは違う真面目な声で、千年屋は言った。蝶子が、千年屋の方を見ると、「僕、今良いこと言ったでしょ」と言って、ニヤリと笑った。蝶子も笑って、「うん。カッコ良かった」と言った。

 

「そういえば、君の名前。まだ聞いてなかったね」

「ん・・・あたしの名前はね、青井蝶子。ヒラヒラ空を舞う『蝶』に子供の『子』で蝶子」

「良い名前だ」

「ありがとう。あたしも、この名前気に入ってるの」

気が付くと、もう夕暮れだった。空だけでなく、周りの全てが赤く染まっている。

「蝶子、僕に名前を付けてくれないかな」

「え、名前を?」

「思い出にね。いつもはこれを、時間を売る条件にしていたんだ。・・・千年は長い。色々な人と出会えるけど、その分たくさんの人とも別れなければならない。とても面白いけれど、とても寂しい時がある。・・・僕は、僕の名前を忘れない。ひとつ残らず思い出せるよ、出会った人も一緒にね」

千年屋は笑っていたけれど、とても哀しそうな瞳をしていた。

「いいよ。付けてあげる」

蝶子は、一生懸命考えた。誰かのために何かを真剣に考えたのは、生まれて初めてだった。

「えへ。えっと、『黒曜』はどう?」

「黒曜?」

「石の名前なんだけど、あなたって全身黒尽くめだから」

「ひゃはは。そうか、ありがとう。今までに付けてもらった名前の中で、一番気に入ったよ」

千年屋は、本当に嬉しそうだった。

「これが、蝶子の『人を喜ばせる』千年屋としての初仕事だな」

「あたし、名前を付けただけだよ?」

「僕は、とても嬉しいよ」

「じゃあ、あたしも嬉しい」

世界が真っ赤に染まる中で、蝶子と『黒曜』は笑いあった。

 

 

古びた小さな体育館が見える学校の屋上に、一人の男子生徒が立っていた。行儀良くそろえて置かれた靴と、その側にある白い封筒からして、自殺を考えているようだ。屋上を囲む高いフェンスに腰掛け、下を見下ろしている。周りには、誰もいない。少年のジャンプを妨げるような人間は、誰もいない。まさに飛び降りようとした時、ひときわ強い風が吹いてきて、少年の体を押し戻した。

カシャン

少年がゆっくり目を開けると、そこには自分と同い年くらいの少女が立っていた。紺色のセーラー服に、少女の小さい身体には不釣合いな、大きくて黒いコート、そして首には青いスカーフを巻いている。スカーフが風に揺れて、蝶が舞っている様に見えた。少年は突然の出来事に驚きながらも、この不思議な少女に尋ねた。

「あんた、誰?」

「あたしは、あたし」

そう言って、可愛く笑った。

「あんた、何者なんだ?」

「・・・あたしは、千年屋」

びっくりして声が震えている少年に、にっこりと微笑んで少女は言った。

「千年の時を売る、千年屋。あなたの笑顔が見たくて、飛んできたの」

 

この街には、今日も『千年の蝶』が舞う。

 

 

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